ファーバーカステルの歴史
 
 

■創設から鉛筆の製品化に至るまで

 1761年、家具職人のカスパー・ファーバーが、ニュールンベルグ郊外のシュタインで事業を開始、今日のファーバーカステル グループの基礎を築きました。
 それから80年近くの時を経た、1839年のこと、後に男爵となり王室顧問にも任命された4代目の経営者ローター・ファーバーは、六角形の鉛筆を発明したり、鉛筆の長さや太さ、硬さの基準を作るなど、ドイツの鉛筆業界を繁栄させる画期的な取り組みを行いました。現在の鉛筆に見られるような形や品質を備えた商品が世界中に広まったことは、すべて彼の功績によるものです。
また、ローターは、それ以前は誰もやったことのなかった会社名を商品に刻印するということを初めて思いついた人でもありました。

 こうして“A.W.Faber”は、鉛筆としてはもちろん、筆記具としても、初めてブランド化した商品となったのです。そしてローターの構想は、早い段階でドイツの国境を越え、1849年には国際的な事業にも乗り出すこととなりました。手始めに、成長著しいアメリカ市場に鉛筆を供給するため、ニューヨークに子会社を設立。その後もロンドン、パリ、ウィーン、そしてサンクトペテルブルグに子会社を設立することで、彼は早くから描いていた自身の夢を実現させたのです。

 
 

■ブランド構築からカステル9000番の発売へ

 1898年、ローター・フォン・ファーバーの孫娘で、6代目の後継者として指名されていたオッテリー・フォン・ファーバー(1877~1944)は、ドイツで最も伝統がある貴族の一つの子孫であったアレグザンダー・ズ・カステル・リューデンハウゼン伯爵と結婚しました。 ローターは遺書の中で、彼の後継者となる者は皆、名前にファーバーと付けねばならない、と明記していたことから、ファーバーカステル伯爵夫妻、そしてファーバーカステルという会社名がこの時に誕生したのです。

 アレグザンダー伯爵は1900年に6代目として経営権を譲り受け、3年後、バイエルン貿易博物館の館長を務めていたセルドア・フォン・クレーマーが計画していた壮大なNeues Schloss(新しい城) の基礎が敷かれました。今では歴史主義とアールヌーボーの建築スタイルを象徴する唯一のモニュメントと位置づけられるこの建物は、工場から見えるところに建てられ、タワーやアーケードで、もともとあった邸宅につながっていました。(ちなみに、ルネッサンス様式に大幅な修正を加えた大邸宅、Altes Schloss(古い城)はバイエルン伯爵であり建築家であったフリードリッヒ・バークレンが1845年ローター・ファーバーのために建てたものです。)

 また、アレグザンダー伯爵は1905年、有名な緑色のカステル9000番鉛筆を発売。今までになかったような高品質を象徴する、そしてすべての競合に対しても決してひるむことがないようなシンボルは何かと考えていた彼は、馬上で闘う騎士の絵を鉛筆に刻印するすることにしました。その図案は現在でもファーバーカステルのトレードマークになっています。

 
 

海外拠点作りから環境へ配慮した様々な取り組みへ

 1978年、アントン・ヴォルフガング・フォン・ファーバーカステル伯爵は8代目として経営権を引き継ぎました。彼は、化粧用の木軸ペンシルの生産を行ったほか、就任後、20年の間にマレーシア(1978)、香港1979)の子会社、マレーシアの工場(1980)、インドネシアの生産プラント(1990)、チェコ共和国の物流センター(1996)、と一連の海外子会社や工場などの拠点作りが進められました。さらに、1997年にはコロンビアで製図用の道具を製造していたテクナクリルの株の大半を取得、インドではムンバイ(ボンベイ)に販売会社を、ゴアに工場を設立しました。中国の広東には2001年にファーバーカステルにとって15番目の生産拠点となる製造・包装センターを設立しました。

 また、会社のポリシーには、環境面での配慮がより前面に押し出されるようになりました。独自の森林保護プロジェクトは1980年代半ばにブラジル南東部で始まり、その後継続して発展してゆき、環境と経済両方の観点からモデルプロジェクトとなっています。1992年、ファーバーカステルは鉛筆メーカーとしては初めて(そして未だに1社だけ)環境にやさしい水性塗料技術をドイツで導入しました。その6年後には、コスタリカに生産拠点を設立、そこでは環境の面からも認定されたティンバー材で鉛筆を生産しています。